企画展

企画展
雄島探訪おしまたんぼう
~ 極楽浄土へのかけ橋 ~ 」
[会期]令和5年10月4日(水)
~令和6年2月4日(日)

松島は、時代によって様々な顔を覗かせます。初めは、景観の素晴らしさから歌枕の地として、見仏上人の来松、臨済宗・円福寺の創建以降は聖地・霊場として、天橋立・厳島とともに「日本三景」の一つに数えられ、松尾芭蕉の『おくのほそ道』により全国に紹介されてからは観光の地として世間に認識され、現在に至ります。

その中心となるのが「雄島」と呼ばれる小さな島です。 都人は「浄土の景」と言われる雄島からの景色に思いを馳せ、想像力の限りを尽くして歌を詠みました。また、「浄土への入口」とも言われる雄島には、故人の冥福や自身の極楽往生を願い、火葬骨を納める骨塔や、板碑という供養碑が無数に建てられています。さらに、芭蕉によって絶景の地であることが広く周知された後は、多くの文人墨客の手により歌碑・句碑・詩碑等の石碑が建立されました。雄島の歴史は、先人達の想いの上に成り立っているとも言えるでしょう。

本展覧会では、数多の人を魅了し続ける雄島に関する資料をご紹介いたします。極楽浄土に見立てられた風景を前に、人々は何を祈り、願い、綴ったのでしょうか。観覧後は雄島へと足を運び、古人が焦がれた霊地としての面影を、肌で感じていただければ幸甚に存じます。

展示作品リスト

※表は横にスクロールします

はじめに 美しい景色あり
作品名称 筆者名 数量 時代、他
松島図 菊田伊洲 1幅 江戸時代後期
松島図 大槻磐溪 1幅 江戸時代後期
詠松島五絶拓影 古梁紹岷 1幅 江戸時代後期
陸奥国塩竈松島図 佐久間洞巌 1帖 享保13年(1728)序
千載和歌集   1冊 江戸時代
見仏上人 雄島に住まう
作品名称 筆者名 数量 時代、他
伝・見仏上人磨崖仏(パネル)   1枚  
撰集抄   1冊 慶安3年(1650)
松島山円福禅寺住持次第 陽岩宗純 1帖 慶長4年(1599)
見仏上人の再来 頼賢
作品名称 筆者名 数量 時代、他
頼賢碑拓影 原字:一山一寧 1幅 原碑:徳治2年(1307) 国重文
覚満禅師墓碑拓影      1幅  
北条政子舎利寄進状   1幅 鎌倉時代
水晶製五輪塔舎利容器・舎利一粒 北条政子寄進 1基 鎌倉時代
極楽浄土への願い 結縁
作品名称 筆者名 数量 時代、他
板碑   6基  
正安元年銘板碑拓影   1幅 原碑:正安元年(1299)
干時辛酉銘板碑拓影   1幅 原碑:元亨元年(1321)
貞和五年銘結衆碑拓影   1幅 原碑:貞和5年(1349)
雄島と瑞巌寺
作品名称 筆者名 数量 時代、他
慶長七年銘供養碑拓影 原字:陽岩宗純 1幅 原碑:慶長7年(1602)
松吟庵薬師堂記碑拓影 原字:天嶺性空 1幅 原碑:元文元年(1736)
法語「示素漢」 雲居希膺 1幅 江戸時代前期
扁額「醫國殿」 原字:天嶺性空 1面 享保21年・元文元年(1736)
丈六薬師如来像残欠(左手)   1 江戸時代
千貫島 一関恵美 風炉先屏風 令和5年(2023)
芭蕉 松島の月先心にかかりて
作品名称 筆者名 数量 時代、他
芭蕉翁画賛 高橋容所/南峰 1幅 江戸時代末~明治初
芭蕉翁句碑拓影   1幅 原碑:延享4年(1747)
曽良句碑拓影   1幅 原碑:文化5年(1808)
雪中菴蓼太句碑拓影   1幅 原碑:明和5年(1768)
奥州松島塩竈全図 斑目東雄 1面 江戸時代後期
奥州松島塩竈図 玄亭 1面 江戸時代後期
松島五大堂御嶌句碑集 大原呑舟 1面 文化14年(1817)
松島双子島 川瀬巴水 1面 昭和8年(1933)
おくのほそ道 松尾芭蕉 1冊 寛政元年(1789)再版本
雄島にまつわる伝説
作品名称 筆者名 数量 時代、他
火鈴   1口 伝・元時代
松島図誌(火鈴の頁) 桜田周輔 1冊 文政4年(1821)
雄島周辺海底表面採集板碑について
作品名称 筆者名 数量 時代、他
板碑   14基  
明徳二年銘板碑拓影   1幅 原碑:所在不明
パネル展示『奥州名所圖會』大場雄渕著 (宮城県図書館蔵)
雄島の景/雄島表の真景/覚満禅師像/蓮生法師、見仏上人を訪ねる/松島念仏踊(雲居念仏)/西行戻しの松

主な展示作品

■ 雄島洞窟内の見仏上人と伝わる磨崖仏
(パネル展示)

長治元年(1104)、伯耆国(現鳥取県西部)から松島にやって来た見仏上人は、雄島に妙覚庵を建て、12年間法華経を唱え続け神通力を得たとされます。やがてその名声は朝廷まで届き、元永2年(1119)、鳥羽天皇より仏像・宝物を贈られたと伝えられています。

これを機に、雄島は高徳の見仏上人が住まう島として広く知られるようになり、霊場松島の中心地となっていきました。

■ 頼賢碑拓影(部分)原碑:徳治2年(1307)
 国重要文化財 

13世紀中頃、瑞巌寺の前身である禅宗寺院・円福寺が鎌倉幕府により建立され、多くの宗教者が霊場松島を訪れるようになりました。中でも円福寺6世・空巌慧禅師により妙覚庵の庵主に任命された頼賢は、以後、島から出ることなく、22年間ひたすら法華経を唱え続け、「見仏上人の再来」と称されました。

雄島の南端に建つ頼賢碑(国重要文化財)は、頼賢の行状を記し、その徳の高さを後世に伝えるため弟子達によって建てられました。

■ 暦応4年(1341)銘 百ヶ日追善供養碑

■ 建武4年(1337)銘 逆修供養碑

13世紀の終わり頃、板碑という石製の供養塔が建てられるようになります。現在雄島内には70基ほどの板碑がありますが、島周辺の海底から3,000点以上の板碑が表面採集されており、往時は多数の碑が林立していたと考えられます。
板碑には故人を供養するだけではなく、生前に自分自身の供養をした板碑もあります。 前者を追善供養碑、後者を逆修供養碑といいます。

■ 把不住軒(坐禅堂)

■ 墨跡「素漢に示す」 雲居希膺筆

把不住軒は瑞巌寺99世・雲居希膺禅師が雄島の景観と静寂を愛し、公務の合間を縫って坐禅三昧の時を過ごした場所です。把不住軒の名称は、雲居禅師の室号「把不住」(捉えようがない、捉えられないの意)に由来します。
雲居禅師が伊達政宗公正室・陽徳院愛姫の要請に応えて作成した道歌108首からなる『往生要歌』は「雲居念仏」ともいわれ、庶民にも広まりました。松島では「松島念仏踊り」と称し、盂蘭盆の折、念仏を唱いながら踊り歩き、道中で喜捨として受けた米銭を雄島に納めて「親族不離の亡霊に供養」したとされます。
墨跡「素漢に示す」は、雲居禅師が坐禅中に、救済を求めてあらわれた素漢(男の幽霊)に与えた法語です。

※「雲居念仏」昭和57年採録

■ 雄島の句碑群 芭蕉・曽良他

■ 松島五大堂御嶌句碑集 大原呑舟画
 文化14年(1817)

元禄2年(1689)旧暦5月9日、松尾芭蕉が弟子の曽良を伴い松島を訪れました。『おくのほそ道』には旅の目的の一つであった、海に映る月に心を奪われた様子が描写されています。
『おくのほそ道』の発表以降、芭蕉の足跡を慕った俳人達が松島を訪れて句を詠み、沢山の句碑が建てられました。
観光目的で松島を訪れる人も増え、霊場としての性格を帯びながらも、次第に観光地化していきます。土産物として様々な松島名所図が作られ、和歌や俳句を添えたものもあります。

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